藤沢周平著「橋ものがたり」を読んだ。
市井に生きる人々の、橋にまつわる悲喜の物語10編。
お気に入り度:
★★★★藤沢周平著「小説の周辺」に、「橋ものがたり」について書かれている『芝居と私』というエッセイがある。
ここで小説集「橋ものがたり」について、『二ヶ月に一編ぐらいのわりで書き、一冊の本にまとまったのは、それから二年ぐらい経ってから、執筆も本になるのもスローペースで、少しも目立たない地味な小説集』と述べている。
このエッセイは「橋ものがたり」が芝居化された、喜びと新鮮な感動を綴ったもので、地味で目立たない存在の我が子が、思わぬ好機を得て、立派になっていく姿を喜ぶ親のようである。
実際「橋ものがたり」を読んでみると、地味で目立たないというよりは、丁寧に綴られた橋にまつわる物語という印象で、作者の作品に込めた愛情が伝わってくるような作品集である。
約束
幸助は、五年前に再会を約束した橋の上で、三つ下の幼なじみお蝶を待っている。
お蝶は、十三の時、引っ越しして料理屋へ奉公に出ることになったと告げに、奉公先の幸助を訪ねてきた。
遠くから、わざわざ別れを言うために来たお蝶のいじらしい姿に、彼女が幼い頃「大きくなったら、幸ちゃんのお嫁さんになるの」と言った情景がよみがえり、年季が明ける五年後に逢おうと約束したのだった。
五年も経てば人も変わると自分に言い聞かせながらも、お蝶が来るのを期待する幸助と、汚れてしまった自分を卑下し、再会を逡巡するお蝶を描いた作品。
未だ心は繋がっているのにすれ違う気持ちと、読者の期待する結末が、心地よい歯がゆさを読者に感じさせ、お互いを分かり合い、本当の姿を見つめる様子に心が暖かくさせられる。
印象的なラストシーンは、本短編集のうち、一番の気に入った場面である。
小ぬか雨
おすみが、夜は一人で住み込んでいる叔父の出店に、一人の男が逃げ込んできた。
一度は出ていったが、再び戻ってきてもう少し匿って欲しいというその男の言葉を怪しんで、様子を見に行くと、すべての橋には男を町から逃がさないよう見張りが付いていた。
躾のいい家のお店者らしい様子と、困惑と不安が滲み出ている男を匿うことにした翌晩、縁談が決まり我が物顔で接するがさつな勝蔵が、亭主気取りでやってきた。
両親を亡くして叔父に育てられ、野卑な勝蔵との縁談が決まった、おすみの半分諦めた人生に灯ったひとときの光を描いている。
物寂しいおすみのこれからの人生は、ひととき灯った光が支えになっていくのだろう。
思い違い
指物師の源助は、三月ほど前から両国橋で顔を見かけるようになった女を探して、きょろきょろとしている。
醜男の源助は、朝と夕二度会う、少し愁い顔のきれいな彼女と擦れ違い、ただ顔を見るだけで幸せだった。
源助は、ある日の仕事の帰り、女が二人の男に絡まれているのを助け、思いがけなく言葉を交わすこととなって喜んだが、後日親方から娘との縁談を持ち込まれた。
橋の上で、仕事に向かう朝と仕事帰りの夕方、二度すれ違う女に一目惚れした源助の一途な思い。
自分の醜男ぶりを知っている源助の、不相応な縁談話への戸惑いと、橋の上であう女と縁談の天秤に揺れる源助の逡巡が、絶妙に描かれた作品。
源助のささやかな思い違いが物語のアクセントとなっている。
赤い夕日
育ての親・斧次郎は博奕打ちだったが、おもんにはやさしかった。そして、ちゃんとした所に嫁に行くのが一番だと言って、おもんを孤児として料理屋の女中奉公に出した。
どんなことがあっても永代橋を渡ってくるな、俺を忘れろと言って別れた斧次郎とは、縁が切れ、おもんは若狭屋の跡取り・新太郎と結婚して五年になる。
やさしい夫に何の不満もなくしあわせだったが、手代の言った夫に女がいるという言葉が、おもんのしあわせに影を落とした。
そんな折り、斧次郎の使いで来たという男が、おもんを訪ねてきた。
女性を大きく包む父性を存分に感じさせる作品。
父から夫へと愛情が引き継がれていくようなラストシーンに、結婚式で父から新郎へと娘を渡す場面が浮かんでくる。
小さな橋で
米をといでいる十歳の広次は、原っぱに行こうという友達の誘いに、気持ちが揺れながらも断った。姉を迎えに行くためだった。
米屋に通い勤めしている姉が、手代の重吉と”でき”て、夜遊びをしないための見張りを母から言いつけられているのだ。
父は家を出ていき、母は飲み屋で働きだし、夜の五ツ過ぎに酒臭くなって帰ってくるので、姉を見張るのは広次しかいなかった。
父の失踪から家庭が崩れだし、さまざまな事が幼い広次の背に乗っかってくる重圧と、意味が分からなかった”できる”ということが理解できた広次のわずかだが確かな成長を描いている。
この作品のクライマックスである、小さな橋の上で友達のおよしと心を通わせる場面は、幼い二人の少しだけ大人になる様子が印象的で、あたたかで優しい余韻が残った。
まぼろしの橋
おはつは、幼い頃美濃屋に拾われた。
実の父との記憶は、橋のたもとに自分を残し去っていく父の姿と、父を捜し知らない町をさまよう自分のことだった。
兄妹として育った信次郎の嫁になって二月半が過ぎた頃、おこうは実の父の知り合いという男から声をかけられた。
おはつの、橋のおぼろげな記憶を巡って起きた事件と、父のまぼろしを消した幸せを描いた作品。
やくざ者に沸き起こった思わぬ父性が、物語を暖かくしている。
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他、『氷雨降る』『殺すな』、『吹く風は秋』、『川霧』を収録。