藤沢周平著「夜消える」を読んだ。
裏店に生きる人々の哀歓を、精妙な筆致で描いた市井物七編。
お気に入り度:★★★★懸命に生きる市井の人々の、心の機微を描いた作品集で、その精妙な筆致で描かれた心の情景は、非常に魅力的。
その中でも、少し切ない物語をユーモラスに描いた【踊る手】と【遠ざかる声】は、愛情を交わす喜びが爽やかに満ちていて快い。
また、育ててきた弟の独り立ちに湧き上がる、姉の複雑な心情を描いた【初つばめ】も、春の爽やかさに包まれた心地よい作品である。
おのぶの亭主兼七は、雪駄職人である。しかし酒に溺れ、仕事は手につかなくなっていた。
ある日、住み込みで働いている娘おきみが、駆け込んできた。無心に来た兼七を婚約者に見られて、結婚の延期を告げられたと、涙ながらに言うのだった。
沈湎の亭主を持つ、妻の悲哀を描いた物語。
おのぶの心に湧き上がる幸せとなった娘への複雑な気持ちが、亭主を思うおのぶの深い愛情を露わにさせる。
そして、その思いの元を辿って、兼七の複雑な胸中が感じられる作品である。
新之助は、悪友の源次から、かつて思いを寄せていた幼馴染みのおこまが帰ってきたことを聞いた。
おこまは、岡場所勤めを余儀なくされて、町内から姿を消していたのだが、彼女が帰ってきたと聞いて、新之助は胸の高鳴りと、妙に冷静になる自分を覚えた。
夢想的な男と、現実的な女を対照的に描いた作品。
男の未練がましさや、安住地を捨てきれない小心さを痛感させられる。
博奕に溺れ、毎晩家を空けていた菊蔵。そのつら当てに子供を死なせた女房おみつ。二人は別れ、五年ぶりに偶然再会した。
しかし、おみつは住む場所も教えず、今は一人だと言って、淋しそうに永代橋の川向こうへ去っていった。
子供を死なせた呵責から菊蔵を拒むおみつと、彼女との微かなつながりを感じる菊蔵の、夫婦の機微を描いた作品。
身勝手だが、やり直したいと思う菊蔵の誠実さが、やがて夫婦の絆を取り戻すだろうという、かすかな期待が心を暖かくさせる。
信次は、遊び友達のおきみの一家が、年寄り一人を残して夜逃げしたことを知った。
それ以来、ばあさんは誰とも口をきかず、何も口にせず、同じ裏店の住人は心配を募らせるのだった。
十歳の信次が触れた、年寄りの哀歓を描いた作品。
ラストの、喜びと幸福感を感じさせるばあさんのユーモラスな仕草が、不思議な力を湧き上がらせ、とても心地よい気持ちにさせられる。
夫が奉公先の金を使い込み、姿を消してから五年。おしなは、夫を見かけたという話を聞いた。
意を決し、転々とする夫の足取りを追ってきたが、夫がしばらく住んでいたという裏店で、その消息はふっつりと途絶えていた。
転々とする夫の足取りと、金の使途の謎をミステリー調で進めつつ、女性の喜びを描いた作品。
つき合っていた姿のいい男よりも、自分を頼る夫を選び、自分をふてぶてしいと思うおしなを快く感じるのは、築き上げた夫婦の絆を選んだおしなを賞賛する気持ちよりも、頼りない夫を選んだおしなの包容力に感銘したからだろう。
姿のいい男を選ぶのも女性の喜びなら、誰かをを支えたいと思う母性も女性の喜びなのではないだろうか。
早くに両親を亡くしたなみは、身体を売って生活費を稼ぎ、弟を育ててきたという自負がある。弟が嫁をもらう日のために金も貯めた。
そして今日は、弟が婚約者を連れて、挨拶にくる日である。
それなのに、表店に店を構える太物屋の娘を連れてきた弟は、祝いの酒も、金もいらないと言うのだった。
苦労して育ててきた弟が、自分の元を去っていく、複雑な姉の心境と、初つばめがもたらしたなみの春を描いている。
弟の結婚相手に引け目を感じ、慎ましくも弟の慶事を祝おうとする気持ちを断られた、姉の複雑な胸中の描写は絶妙。
姉の元を巣立った弟を初つばめと見立て、その季語である春が、弟から姉にもたらされる設定が、爽やかさを運んでくる。
太物屋の店を構える喜左衛門の妻はつは、悋気のたちだった。
死んだあとも現れて、夫の再婚話を破談にしたあげく、今回持ち込まれた縁談にも、相手は悪い女だと難癖をつけるのだった。
はつが死んでも変わらない、遠慮のない夫婦関係と、愛情をユーモラスに描く、暖かさが詰まった物語である。
嫉妬しつつも夫の幸せを願う亡妻はつの、素直でない愛情表現が、夫婦の絆の強さを感じさせて心地よい。
フジテレビの「怪談百物語(第九回:ゴースト)」の原作として、テレビドラマ化された。