藤沢周平著「ふるさとへ廻る六部は」を読んだ。
故郷喪失の深い感慨と母川回帰。作家の道を選んだ著者の自己存在証明エッセイ。
【六部】六十六部の略。六十六部の法華経を書き写し、日本六十六ヶ所の札所を巡礼して一部ずつ納めてあるく人。(新選 国語辞典 第六版より)
ふるさとへ廻る六部は気の弱り。世の中を歩き続けた著者が、東北人としての認識を持ちながら、自分の生まれた荘内以外をほとんど知らないことに気付き、東北人である自分を再認識するために、東北巡りを始めたとき浮かんだ古川柳である。
明日に何の保証もない作家の道を選んだとき、無意識の誰何に対する自己存在証明がこのエッセイだと語る著者。懐かしき故郷の思い出を綴ることで、新しい生き方に必要なアイデンティティーを確立できたという。
本書の書籍名は、このような母川回帰をする自身を、ふるさとへ足が向かう六部と重ね、この古川柳から引用したものである。
本書は四部構成になっていて、第一部では、著者の郷里への強い愛情や思い出を語る一方、コンクリート化される護岸工事や高速道路建設、後継者不足による農業の衰退など、近代化によって失われつつある故郷への寂寥や憤り、焦りが綴られている。
エッセイ「小説の周辺」で著者自身も語っているが、こういった感情は、長らく故郷から離れている人間が、自分の育った頃の楽しい思い出を郷里に残し、それを懐かしい故郷とともに残しておきたいという言わばエゴのようなもので、そこに住み続ける人にとっては、出ていった人間が何を言うか、である。
本書に収録されている故郷についてのエッセイには、そういうエゴも含めた著者の素直な気持ちが現れており、人情味の感じる『ふるさとへ廻る六部は気の弱り』と同様、作家藤沢周平ではなく、人間藤沢周平が感じられるのである。
こういったことを踏まえつつ、本書の冒頭にある詩【忘れもの】を読むと、この詩の空気というものが伝わってくる。
第二部では、主に作家としてのエッセイが収録され、信長ぎらいとなった理由や、自作品への思い、他の作家とのことなど、藤沢作品のファンとして興味深いエッセイが詰まっている。
その中でも、池波正太郎について綴った【池波さんの新しさ】は、先輩時代小説家の作品をどう見ていたか、本人との交流などについて語られており、特に楽しんで読ませてもらった。
第三部は身の回りのことが中心。会社員時代のこと、病気のこと、家族のことなど、藤沢周平が身近に感じられるエッセイばかりである。著者は自律神経失調症で、電車に乗るとき奥さんに同伴してもらっていたと知り、繊細な人だったのだと感取した。失われつつある故郷と都会の生活が精神を蝕み、しかしその彼を気にかけ労る家族や編集者の暖かな存在が、作品に大きく影響したのは間違いないだろう。
第四部は趣味のこと。絵画と音楽と映画、そして読書のこと、特に大好きな推理小説を読んだ感想どを語っている。
著者は、締め切りが迫っているのに、先が気になる推理小説に手を伸ばしてしまうほど、推理小説が好きだという。その著者が、平成五年海外ミステリーのトップクラスの収穫とした、パトリシア・コーンウェルの「検屍官」、「証拠死体」は、いずれ読んでみたい。主人公検屍局長ケイ・スカーペッタとコンビを組む、警部補ピート・マリーノの人間関係の描写が面白く、読後の後味も爽やかだそうだ。
【なみなみならぬ情熱】では、北斎の肉筆画を見たときの所感を述べているが、その肉筆画から魅力的な版画を製作する彫り師、摺り師ら職人の情熱にまで思いを至らせており、その彫り師が主人公の重厚なミステリー作品、彫師伊之助捕物覚えシリーズ「消えた女」、「漆黒の霧の中で」、「ささやく河」は、これら芸術への親しみと大好きな推理小説のコラボ作品である気がした。
![]() 小説の周辺 藤沢 周平 文春文庫 | ![]() 消えた女 ―彫師伊之助捕物覚え 藤沢 周平 新潮文庫 | ![]() 漆黒の霧の中で ―彫師伊之助捕物覚え 藤沢 周平 新潮文庫 | ![]() ささやく河 ―彫師伊之助捕物覚え 藤沢 周平 新潮文庫 |
![]() 検屍官 P・コーンウェル 講談社文庫 | ![]() 証拠死体 P・コーンウェル 講談社文庫 |