高野 史緒編「時間はだれも待ってくれない―21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集」を読んだ。
東欧文学は他と接触するのも距離をおくのも自由であるSFのような存在。
お気に入り度:★★★★
本書の解説の中で沼野義満氏は、東欧の作家について、
「(西の形式と東の崩壊の)境界上の存在であると自覚した作家は、ときに内にこもってアイデンティティを確立し、ときに境界を越えて前衛性を発揮する」
と論じた。
ちょうどそのとき、星新一のエッセイ【小松左京論】(『きまぐれ博物誌・続』に収録)を読んでいて、沼野氏の解説との関連性を覚えた。
星新一はエッセイの中で以下のように語る。
ある時、小松左京が私に言った。
「SFというのは、いかなる分野とも接触できるという不思議な性格を持っている。SFととなりあわせでないものを探すのに苦労するほどだ」
ちょうど同じころ、私もそれと似てまったく逆のことを思いついていた。
あらゆる分野から一定の距離をおき、その影響から無縁で、超然としていられるのはSF以外にないのではないかという点だ。
これについてはある雑誌に書いた。ヨーロッパの錬金術師たちは、政治、宗教、実利といった世俗的なものからの安全地帯に身をおいたからこそ、奇妙な発想ができた。SFも同様であろうとの内容である。
このエッセイからは、「SFは他と接触するのも距離をおくのも自由」ということが読みとれる。
これを沼野氏の解説と照らし合わせてみると、SFは世俗と非世俗の『境界上の存在』であると考えられそうだ。
とすると、西に接触するのも東にこもるのも自由な東欧作家、そして彼らから生み出される東欧文学は、「他と接触するのも距離をおくのも自由」であるSFのような存在ともいえるのではないだろうか。
そこで本書の収録作品をSF的に、世俗か非世俗か、つまり世俗と接触して東欧の匂いを感じさせる作品か、一定の距離を置いていて無臭の作品か、という判断で勝手に分類してみた。
それを国別で見てみると、『世俗と接触』の作品は北にまとまり、『一定の距離』の作品は南にまとまった。(グーグルマップで見る)
本書収録の作品だけで判断はできないが、作風と国の性質の関係のようなものが見えてくる気がする。
『世俗との接触』の作品は、人の営みを感じさせるだけに、読者をまったく別の世界へ連れて行ってくれる作品は少ない。
その中にあって、全宇宙に布教されたカトリックの新教皇選出を描いた【ハーベムス・パーパム(教皇万歳)】は、宗教とSFが接触して、遠い未来の宇宙を見せてくれる。
教皇選出会議は人間、エイリアン系、ロボット系の枢機卿たちで組織され、選ばれる教皇もまた人間、非人間を問わない。
この物語の中で、UNN(全宇宙ネットワーク)による教皇選出中継番組のリポーターの言葉が印象に残る。
リポーターは、30回に及んだ投票の結果、選ばれた教皇に驚きと興奮を隠さず、こう叫んだ。
「教皇は無謬なり、ではありませんか?そして”人間”とは迷うもの」
【もうひとつの街】は、プラハの街の境界線ひとつ隔てたすぐ隣に存在する、もうひとつの街を描いた幻想小説。
もうひとつの街を、西側諸国、国境接する隣国、またはチェコスロヴァキアだったころのスロヴァキア人ととらえると、東欧の濃厚な匂いが漂ってくるようである。
聖ミクラーシュ寺院でサメと格闘したり、イタチを入れたケースを持っていないからといって不審に思われて追いかけられたり、など強烈な幻想世界の作品だった。
『一定の距離』の作品は、どれも風俗、社会、政治などと接触しておらず、東欧の匂いや現実的な生活をほとんど感じさせない。
時とともに風化する風俗、社会、政治などが作品の要素になっていないため、時の経過で作品が骨董とならないのが特徴である。
特に、列車の中で神と邂逅した男を描いた【列車】は、星新一のような非接触性を感じさせる。
男には、神に一つだけ質問が許されるのだが、そこには質問自体の意義を問う条件がついているという、禅問答のような作品である。
【盛雲、庭園に隠れる者】は、清朝庭園を舞台にした、庭園の所有者である公と、どこからか現れた男・盛雲(シェンユン)の、庭園かくれんぼを描いた幻想小説。
盛雲は、公の一生の間でも、この庭園に隠れていることができると言い放ち、公は、美しい庭園を賭ける。
物語は淡々と進み、盛雲が何者か分からずじまいだが、結末には驚きがあって楽しめた。
* * *
編者の高野史緒氏は、本書の編纂にあたって非常に苦労したそうだ。
このことは、あとがきで触れられている。「私がやらねば誰がやる」という勢いで編者となったものの、東奔西走で緊急入院寸前になったのだとか。
序文や各作品の冒頭にある高野氏の解説からも、非常に情熱を感じた本だった。
ところで、この「私がやらねば誰がやる」で辺境作家・高野秀行氏を思い出した。
奇しくも同姓の高野氏(何と1966年生まれも同じ)が、「私がやらねば誰がやる」という情熱で、ある調査に乗り出したことがある。
つい最近(2011/10/23)大地震で大きな被害を出した、トルコ東部ワン市のワン湖へ怪獣ジャナワールを探しに行ったのだ。
その顛末をユーモラスに綴った『怪獣記』では、「ジャナワールを探しに来た」と言っては現地の人々に大笑いされ、それでも取材を続ける痛々しさ、いや情熱に楽しませてもらった。
解説で沼野氏は、東欧を「世界の言わば『辺境』」と例えた。
その辺境の小説を編纂した高野史緒氏、そして文字通り世界中の辺境で未知を探す高野秀行氏。
辺境に関わる者は情熱を持っているようだ。
高野姓、そして1966年生まれが情熱的かどうかは、占い師に任せておこう。