荒木経惟著「写真への旅」を読んだ。
写真を通した『私』の微分積分が、『私』を新たな境地へと導く。
お気に入り度:★★★★
本書は、昭和50(1975)年、『アサヒカメラ』に連載された『荒木経惟の実戦写真教室』をまとめたフォトエッセイ。
天才アラーキーが全国のアマチュアカメラマンと撮影合戦を行った実戦写真教室。
そこから伝授される写真の極意とは果たしてどんなものか。
早速、天才の神髄をモノにしてやろうとページをめくった。
ところが……。
ダジャレとジョーク、そしてマシンガントーク。
意味があるのかないのか、真剣なのかテキトウなのか。
氾濫する言葉。
言っていることの半分程度しか理解できない。
ここで挫けてはならぬ!
天才の言葉なら多少の意味不明もしかたない。
じっくり言葉を噛み砕いてやる!
途端に言葉の渦に巻き込まれ、上か下か、右か左か。
ますます訳が分からなくなってしまった。
もう諦めた。
天才の言葉は解らない。
なかばいい加減に俯瞰の気持ちで読んでいく。
すると言葉の渦が、大きな言葉を形作っていることに気づいた。
まるで、たくさんの写真を並べて大きな肖像をつくるアート作品のように。
意味不明の言葉たちは肖像の陰影だった。
現れたのは『私』だった。
* * *
「文化とか、歴史のために写真を撮るのはもうやめて、自分のためにこそ『激写』するのだ。あまりにも社会に、時流に媚びすぎる。時流と心中することはない。もっと『私』に媚びるべきだ」(P30)
「自分が撮りに撮りまくったへたくそな写真を、くりかえしくりかえし見ること。その中には、自分の『私性』が必ずあるはずである。見つけだした私性、『私眼』を信じて、また撮って撮って撮りまくるのである」(P51)
『私』に媚びた写真を撮ることで『私』の欠片が見つかり、『私』の欠片によって『私』に近づいた写真が撮れる。
そして、その『私』に近づいた写真を撮ることで、新たな『私』の欠片が見つかり……。
この『私』の発見の繰り返し、すなわち『私』の微分の繰り返しが、さまざまな『私』を蓄積していく。
そして、その『私』を積み重ねて現れた積分の『私』こそが、アラーキーの写真の極意なのかもしれない。
ところで、これを読書に置き換えることもできそうだ。
『私』に媚びた読書。
読んで読んで読みまくって、くりかえしくりかえし考える。
何が面白く、何がつまらなかったのか。
その中に発見する『私』。
そして発見した『私』が求める本を読んで読んで読みまくる。
読書を通した『私』の微分積分の果てに何があるのか。
読書がまたひとつ面白くなってきた。